きょうのエスキス

一級建築士試験の合格を目指して奮闘中。静かにじんわりと、日々の振り返り。自分のための。B面。

カフェにある「自然」

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今夏に小谷村に行ったとき、地方に移住してみたらよいのではという話になりましたが、日常に戻り、改めて想像してみると、なんだか寂しすぎて、こわくなってきました。星空の見える薄暗い闇は好きなのですが、和歌山のかつらぎの集落に行ったときに見た、杉林に囲まれた漆黒の闇は、何もかも飲み込まれそうになるほどの喪失感、孤独感があり、身震いするほどでした。ひとりの時間は好きなのに、ひとの気配が感じられないとどうもダメなのです。家でひとりでいるのもちょっと苦手です。「自然」というと、山、川、森、林、草木というイメージがあるのですが、都市部で育った私にとっては非日常であり、ふだんの生活のなかで、それらに囲まれると落ち着くかというと、必ずしもそうとはいえませんね。たまに行くからよいのであって。やはり育ってきた環境って大きいんだなぁと思います。 

私にとっては、森林浴よりもカフェで過ごすことの方が、「自然」なのかなと最近感じます。小鳥のさえずりや小川のせせらぎは、もちろん聴いていて落ち着くのですが、ふだんの生活では、カフェのノイズを聴くと、なぜかリラックスし、集中できるのです。話し声や、食器のカチャカチャという生活音ですが、そういう音をひたすら聴けるサイトまであるみたいです。https://www.coffitivity.com/ そう考えてみると、ひとによって何が「自然」なのかは異なるのかもしれませんね。「自然」は「なじみやすさ、暮らしやすさ」と捉えてもよいのかもしれませんね。私のなかで、この「自然」と対極にあったのが、仕事や社会生活の諸々でした。何かを意図して行動をするということに、不自然さを感じていました。スポーツや勉強のように、繰り返し実践するうちに、意識しなくても、「自然」に身につくようになるということもあるかもしれませんがね。 
 
一方で「自然」は災害にもあるように、ときに破壊をもたらすものでもありますね。しかしながら、私たちの力でコントロールすることはできません。そして、ひとの生も死も、始まりと終わりは、私たちの思いだけではどうすることもできません。「子どもを授かりたい」「このひとには生き延びてもらいたい」という気持ちは、ときに苦しみをもたらすことにもなってしまうのだなぁと。私がどうしても結婚に対して、出会いに対して、意図的になれないのは、私にとって、ひとが「自然」そのものだからなのです。といっても、自分の意思なのか、教え込み(強化)からなのか、プレッシャーも感じてはいましたが、今は「無」の境地です。それと、私自身も安らかな最期を迎えたい(気がはやいですね)のですが、「自然」の生死の営みとそれに抵抗する思いの葛藤ですね。って、今日のつぶやきも、一種のノイズですね。「自然」は本当に偉大ですね。人生はおもしろい。