きょうのエスキス

一級建築士試験、R2学科復活合格。製図が鬼門。R3は自分に負けない年にする!じんわり日々の振り返り。

まなざしの向こう側

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先日、韓国から友人のジヨンがついに関西にやってきました。ジヨンとは約2年半ぶりの再会。京都に行ってみたいとfacebookで発信していて、それならぜひ会いたいと。当時ジヨンに話していた自分の道(建築の技術を身につけること)をようやく歩み始めたタイミングでもあったからです。さらに、京都で暮らすK-POP好きなかおりちゃんも誘ったら、面白くなりそうだなと手を挙げたのでした。平日にもかかわらず、かおりちゃんも仕事がお休みだったので、二人で話し合い、銀閣寺・哲学の道へ行くことになりました。

ジヨンは韓国の友人に向けて、銀閣寺を見学する様子をライブで実況してくれました。本堂の前のお庭が好きで、白砂を波形に盛り上げた銀沙灘(ぎんしゃだん)、円錐型の向月台(こうげつだい)がありますが、いざ「何これ?」と聞かれると、どう答えたらよいか戸惑ってしまいますね。勉強不足が否めませんでしたが、庭師さんが苔を手入れしている様子も偶然見ることができ、華やかさよりも「わび・さび」の奥行き感を、ジヨンに伝えることはできました。

普段地元ソウルの法人さんを相手に日本語を教えているジヨンは、日本の文化や国民性が大好きで、日韓の架け橋になりたいと月1回東京でジヨンスクールを開くようになりました。そして、「韓国語を学んでソウルへ行こう!日韓同窓生作りプロジェクト」を立ち上げました。そんな背景があったので、ジヨンとかおりちゃん、二人のまなざしが交差する瞬間は、本当にうれしかった!

韓国では外交政策だからか、現在中国の情報が中心で、日本の情報はほとんど入ってこないようです。日本語を学ぶ生徒さんも5年前と比べて6割減なんだとか。それでも、ジヨンの思いは変わりません。「三島由紀夫さんの『金閣寺』を小さい頃に読んだよ!日本語を知ると、さまざまな国の話や学問について翻訳されているから、世界が広がるね。一方で思うのは、日本は先進国だから、母国語だけでも不自由しないけど、他国の文化や言語にも興味を持ったら、もっと世界が広がるんじゃないかな。」自分の気持ちを伝える日本語が思い浮かばず、悔しがりながら、たまにネットで調べるジヨン。何よりも行動が大切だなんだなぁと気づかせてもらいました。

ジヨンとは歳も近いので、プライベートの話にもなりました。京阪電車の特急で向かったのですが、始発の淀屋橋駅から三条駅までノンストップ。他人が幸せに思えることもあるけど、比較しないことだねと。他人に決めてもらって生きていくという発想の延長線上にあったのかもしれないという気づきもありました。「いい・わるい」とされる判断基準も、ごく古い価値観に基づいているところがあるのかもしれないし、その人の想像の限界なのかもしれないなぁと。たとえば、昔は「変化」は何でも「悪」で、引越も、転職も、恋愛結婚も、すべて悪いことだったそうです。現代では「変化していくこと」は「成長・飛躍」と捉えられていて、全く悪いことではありません。また、女性が自立すること、独立することも、現代ではすばらしいことですが、昔はそうではなかったはずです。さらには、愛についての話になりましたが、星読みでおなじみの石井ゆかりさんが、やさしい言葉でありながら、表現力豊かに解説されているので、最後に引用します。

以下は、私の考えです。
愛し合うということは、たしかに、お互いの心を満足させる、充足させる、という部分もあると思います。でも、それ以上に、「自分以外の人間の命を、少し、あるいは半分くらい、生きさせてもらえる」ということでもあるんじゃないでしょうか。気持ちの取引のようなことではなくて、自分という、限界のある存在が、他者と特別な結び付きを得たときに、自分の枠を超えて、相手の人格や価値観、可能性などを、自分の一部として共有して生きることができる、そのひろがりを経験できるのが、愛のすばらしさではないかと思うのです。さらにいえば、そこで新しく「生まれる」ものもあります。子どもももちろんそうですが、たとえば共同事業をしているような人もそうでしょうし、相手と一緒に行動して様々な体験をするだけでも、一人では得られない知恵や価値観、考え方をそこに「生み出す」ことができると思います。
自分で自分を充足させ、自立していられるなら、わざわざ他人と心情的な結び付きを持って、それに付随する面倒なことを引き受ける必要は無い、というのは、たしかに非常に合理的な考えだと思います。私たちは生き物として自分を守り生かすことを目指しますから、心を乱してくるものや生活の足手まといになるようなものは、排除したいと感じるのは、間違っていないと思います。
ですがその一方で、私たちは自分個人という肉体・精神・時間のごく限られた枠を超えて、もっと外側の世界や宇宙、永遠などと結びつきたいと願っている部分もあると思うのです。その部分こそが、他者への憧れや恋、愛へと、私たちを駆り立てるのではないでしょうか。そして、私たちが傷つくリスクを負い、他者の苦悩まで引き受けながら愛情を生きたときに、私たちの内側に、あるいは外側に、なにかが新しく「生まれる」のだとすれば、それこそが私たちを世界や永遠と結びつけてくれるのだとすれば、どうでしょうか。この「永遠」などは、ちょっと神秘的すぎる感じがありますが、たとえば、自分の死んだ後にも自分を覚えていてくれる人がいたら、自分というものが死んだ後の時間にも拡張していく、みたいな、ベタなこともふくまれます。恋愛をすると、自分が自分の外側まで広がって、新しい現実的な存在感を与えられたような感じがするものだと思うのです。
もちろん、そうしたことを望まずに「一人で完結して生きる」という生き方もあると思います。それはそれで、またべつの宇宙、べつの永遠と繋がるような道に創造していくことも、できるのかもしれないと思います。
でも、少なくとも、欠乏と充足、自立と依存、という座標軸を超えて、すこし別の次元からも恋愛を捉えることは出来るんじゃないかと思いました。与え合うもの、ともに過ごすこと、ということも確かに、あります。ですがその向こうに、私たちはあらゆる関わりを自分のものとして生きています。一人の人のホロスコープの中には、パートナーの星もちゃんとあります。ということは、私たちはどこか、相手という人間を自己の一部として生きているわけです。取引関係のように、お互いのあいだにカウンターのような境界線がガッチリ引かれているわけではなく、その関わりがどんな関わりであったとしても、相手という存在は自分自身のなかの何ごとかだ、と考えることができるのです。そんな眼差しでお互いを考えたとき、見えてくるものがもしかしたら、あるのかもしれないな、と思いました。
キラキラした恋の感情は、いくつになっても、突然降って湧いたように襲ってくるモノだと聞きます(笑)私たちが「意志の力で出来ること」はとても限られていて、自分の感情さえ、自由にコントロールすることはほとんど不可能です。では、生き方を何も決められないか、というと、そういうわけでもありません。どんな生き方を選ぶのか、人生では何度も分岐点が巡ってくるものなのだろうなと思いますが、そこで、向き合っている対象が「外」にあると思うか、それとも「中」にあると感じるか、で、答えが大きく変わることもあるのかもしれないな、と思っています。

 今までたどってきた道のりが、ここに集約されていました。人生はおもしろい。