きょうのエスキス

一級建築士の学科試験に向けて奮闘中。静かにじんわりと、日々の振り返り。自分のための。B面。

日曜のつぶやき

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なぜか「はてな」に来て、何かを書こうとすると、とてもホッとします。ただ書きたいという純粋な気持ちにブログは合ってるんだと思います。前々回の記事を近況報告で、久しぶりにFacebookにシェアしようと開いてみると、情報が多すぎて酔ってしまいました。5年前に、今の1日の情報量は、江戸時代の一生分だと聞いたので、今はそれ以上だと思われます。きっとわたしの脳の容量では処理しきれず、フリーズしてしまっているんだと思います。そんな私のような情報の編集が苦手な人がいるから、まとめサイトも流行っているのだなぁと。どこにニーズが隠れているのかわからないものですね。

それに、友だちに本当は思っていない、気の利いた返事もできなくなりました。無理して元気ですとハッピーを演出しても、周囲にはきっとバレバレだし、より虚しくなるだけですからね。最近苦手なことを知ることで、自分のことがより見えてくるようになりました。何を省いて、より大切なことに集中するのか。時が経つのが年々早く感じられ、考えることと悩むことを一緒にしちゃったらいけないなと感じるようになりました。私にとって、何か大きな成果を成し遂げることよりも、誰かのちょっとした変化に気づける、こころのゆとりを持てる事の方が大切だし、幸せだなと感じます。Facebookの華やかな雰囲気よりも、今は「はてな」の方が合っているんだなぁ。ってただのつぶやきになってしまいました。

今日は、構造力学の応力を勉強しています。板挟みになった小人さんの気持ちになり、プレッシャーを感じています。この想像力は問題を解くうえでも大切です(^-^)

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ちいさい勇気

前回の記事もそうですが、私のなかで、一気に視界が広がり、吹っ切れた感覚があります。それはズーニーさんの言っている「小さい勇気」を出したからです。私の場合は、カミングアウトです。自分のことばかり気にしていると、問題ばかりに目が行き、深刻になり、こころもからだもカチコチになってしまい、下手をすると、周りにまで伝染してしまいます。そして、そうなりかけていました。そんなとき、ある方の正直さを通して、私もちょっくら勇気を出してみようかなと、前のめりな覚悟ができました。そして、実際話してみたら、「なんでもっと早く言ってくれへんかったん 笑」と意外な言葉が返ってきて、一気にフニャと全身がゆるみました。

今まではまるで地面にガチガチに固められたコンクリートの太い柱のようで、横から圧力がかかると、今にもせん断破壊しそうな勢いでした。ペシャンコ状態ですね。「小さい勇気」はあえてスリット(逃げ)を入れることなのかなと。これなら力がかかっても、致命傷にはなりません。私の場合、柳のような自然な感じではなく、カミングアウトしたことで鉄筋補強したような感じです。ブサイクではありますが、これで一応曲がるようになりました。早めに「小さい勇気」を出して、そんなカッコわるい状態でも、受け入れてくれる仲間を大切にしようと思ったのでした。「小さい勇気」が連鎖していけば、もっと楽しい世界が広がることは間違いありません。注)私のブログには、時折Eテレ2355のキャラクターが登場します。

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転がった先には

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今日は、大阪市の西の外れにある公立中学校で、久しぶりの現地調査でした。じつは、設計事務所で働くことを目標に、20代に内装や造作工事の現場監督をしていたことがありました。あれからもう干支ひと回りくらいの年月が経っていて驚きました。余談ですが、私の転職は、職種ごと変わってしまうため、意味不明な生き方として捉えられることが多いです。ところが、想定外の結果をもたらすこともありました。

約3年前に介護福祉士社会福祉主事の資格をとり、ケースワーカーの仕事をしていたとき、労災や病気で福祉を受けていた高齢の職人さんたちの怒りや悲しみの声を、今までの経験を通して、頭のなかで想像しながら、傾聴することができました。それが直接のきっかけになったかどうかはわかりませんが、こころを開かれ、コミュニケーションを図ることができたり、就労自立される方も出てきました。この時、どの経験もいつか線でつながっていくのだなと感じました。

さて、話は戻りますが、午前中は所長のサポートで、校庭周辺のレベル測量をしました。棒状の標尺を持って観測点に立っていたらよいと気楽に考えていたら、標尺を読み取る方でした。オートレベルという計測器具がとても厄介で、慣れていないと、設置したり、対象にピントが合わせるのがかなり難しいのです。これじゃなかなか数字が読めないので、作業がはかどらないし、どうしようと、ものすごく焦りました。しかし、所長は動じることなく、穏やかに待っていて下さいました。

午後からは分担作業で、私はプール近くにある廃墟と化した更衣室や機械室に1人で入り、天井高さや建具の大きさを計測することになりました。北側なのか日がまったく差さず、室内はクモの巣が張っているわ、壁や天井に触れると、ベリベリと塗装が剥がれ落ちるわでしたが、秘密基地に来たみたいで、楽しかったです。ここでは、コンベックス(鋼製巻尺)を使いました。使いこなしている職人さんや設計士さんは、まるで南京玉すだれのように、天井に這わせたり、自由自在に操っています。私もちょっと調子に乗ってチャレンジしたところ、垂れてきて顔面に直撃。ビックリして手をゆるめたと同時に、5メートル先からものすごい勢いで、巻き取り開始。シュル、シュル、シュル、人差し指にパチッ!麻宮サキのヨーヨーよりも速っ!凶器だわ(古っ!笑)この経験もどこかで活きてくると思うことにします!!

帰りの車で、所長から「どこを測ったらよいか、わからんかったんと違う?来週に図面書いてもらうとき、説明するからね。撤去で何を算出するのかをね。」と。今日も、きっと私が技術を身につけたいと言っていたから、現場に連れてきてくれたのかな?気合いが伝わったのかな?なんだか嬉しくなりました。

今週、建築士会から導入講座のDVDが届き、本格的に一級建築士の受験勉強を始めました。いったん挫折してからの再チャレンジ。まずは、構造力学・環境設備から手をつけたのですが、思っていた以上にとっつきやすい!!環境振動を専門にされている先生ならではの、ポイントを絞ったわかりやすい解説と、手づくりだけどデザイン性もあるサブテキストで、がぜんやる気がわいてきました。独学でただ過去問を解くだけとは違い、実践でも役に立ちそうです。先生方を信頼し、来年1月からの通学を心待ちにしておきます。またこちらでも書きますね。摩耶観光ホテルや、奈良少年刑務所などの産業遺産も気になっていますが、それはまた次回に。

三日月ストレッチ

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ブログを書き始めて、まもなく1年。最近アウトプットをしつくした感がありました。そこで、総まとめとして、今までを振り返ってみることにしました。書き続けてみて、何が変わったかというと、人間関係がせまく、深くなりました。ひとにいい顔をしなくなりました。何かを求めて、外に出かけることが少なくなりました。むだな買い物が減りました。好きなものだけを使い続けるようになり、着る服が減りました。ブログ以外のSNSの投稿が減りました。多くの「いいね」がなくなった反面、ニッチな部分でつながれる仲間が、リアルにできました。仕事をするのに、オン・オフの切り替えが必要でなくなりました。将来に対する不安や期待、執着をあまりしなくなりました。そして、ストレスフリーになった気がしていたのですが。

昨日、滝谷にある、ミュージックハウスのお披露目会に行ってきました。塾で知り合った音楽の先生が、サロンを開くからと誘って下さったのですが、そこには先生のご主人、妹さん、叔母さんが勢揃い。ご家族のみなさんは、とってもおおらかで、高らかに笑っていて、こちらも愉快な気持ちになりました。サロンはきれいに改装され、最新のカラオケ機材、それとは対照的に、先生が小さい頃に演奏されていた、50年モノのピアノが並んで置かれてありました。先生は塾のほかにも、自宅でピアノ教室を開いたり、福祉施設を慰問したり、さらには大学院にも通っているそうで、そのパワフルさは私も見習いたいなぁと思いました。たしかお孫さんもいると言ってたような。ご近所さんから、なじみの美容師さん、ピアニストさん… 続々とやってきて、クリスマス曲の生演奏まで聴くことができました。演者の方を含めて、先生が書いている論文の話で盛り上がり、そのなかで知ったのが、音楽家の職業病と言われている「フォーカル・ジストニア」でした。

「フォーカル・ジストニアは、主にプロの演奏家など、楽器を高いレベルで演奏する人が、例えばピアノやバイオリンなどの演奏の際に正確に指が動かせなくなる、といった症状が出るものです。 具体的には、手の指の筋肉に変に力が入ってしまい、うまく滑らかに指が動かなかったり、反対に動くべきでない指が勝手に動いてしまって上手に演奏ができなくなってしまうことをいいます。」
 

好きな音楽で生きてきた人にとっては、アイデンティティを喪失するほどのショックだと思います。実際、当事者の方にお会いし、お話を聴くことができました。鍵盤ハーモニカによる三重奏はとても素敵でしたが、その裏側には思ってもいなかった真実が潜んでいました。その方はピアノにふれようとすると、右手の指の筋肉がこわばってしまうというのです。他にもサックス奏者だと、首が反り返ってしまうというのです。自分のカラダやこころを守るために、防衛機制が働いているのではないのかと、先生なりの見解で話をされていました。どの世界でも起きることだなと思いました。しかし、その方にとって、再生のきっかけとなったのも、また音楽だったのです。これからは考え方を変えて、無理だ!と思っていた境界線を越えてみたいと思うようになりました。

帰りにカフェに寄って、しみじみと感じながら、コーヒーを飲んでいたら、フロリダ・オーランドから、大好きなRさんとKさん(2人とも日本人です)がわざわざ電話をかけてきて下さいました。何かを察したのか!?話のなかで「最近自分のことばかり考えてるんじゃないの?」と図星なひと言を放たれ、目がさめました。最近周りがまったく見えていませんでした。この週末にあった出来事で、自分に足りないものがどんどん見えてきて、落胆していたようです。そして、いつからか無意識にこころの壁を閉ざしてしまっていたのです。今日からまたストレッチです。三日月ストレッチ♪♪

続・カフェにある「自然」

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前回、都市部に住む私にとって、森林浴よりもカフェが「自然」と定義づけしてしまいました。ところが、ちょっと待てよ、このカフェというのが、かなり限定されてくるんじゃないかと、我に返りました。森林浴ならば、霧がかった針葉樹の原生林よりも、温かみのある色合いの広葉樹の森がお気に入りであるように。カフェならば、よそ行きの顔をしなくてもよい、個の自分に帰ることのできる場所。偽らず、どこか隙がある人々が集う場所。意図を持つと、主張したり、相手に圧力をかけてしまいますが、それがない場所。作り込まれ過ぎていない場所。職場でも、家でもない、第3の居場所、いわゆるサード・プレイスですね。「サード・プレイスにいる人たちは、しばしばあったかい感情を共有する。あたかも同じ家に暮らす者同士のように。この場所に根ざしている感情を持ち、精神的に生まれ変わることを得る。」(Wikipediaより)同じ系列のお店でも、心地よく感じる場所とそうでない場所があり、今ここを掘り下げているところです。

今日もいつものようにふらふら歩いていたら、冷たい向かい「風」が吹いてきて、ますます寒さを感じるようになりました。「風」というのも面白いもので、木々が揺れるのを見たり、私自身のカラダにふれたり、対象物があってこそ、五感を通して、その存在がわかりますが、輪郭ははっきりしませんね。新しい「風」が吹く、「風」通しのよい関係と言いますが、そんなほどよい「風」に巻き込まれたいなぁと思います。完全にまわりの空気を変えてしまう、風向きや強弱をコントロールしてしまう、クーラーではなく、扇風機のような「風」。曖昧だからこそ、柔軟性のある感じがいいですね。あっ、そんな「風」が吹くカフェが、私にとっての「自然」なのかもしれません。って、だんだん私の語りが、コラム「風」になってきたような。このブログも、エスキスと言いながら、テーマが決まってなくて、かなり曖昧で、だからこそ、いろんな展開があって、しかも心地よく続けられるのかもしれません。ひとりブレストに近いかな?引き続きよろしくお願いします。

カフェにある「自然」

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今夏に小谷村に行ったとき、地方に移住してみたらよいのではという話になりましたが、日常に戻り、改めて想像してみると、なんだか寂しすぎて、こわくなってきました。星空の見える薄暗い闇は好きなのですが、和歌山のかつらぎの集落に行ったときに見た、杉林に囲まれた漆黒の闇は、何もかも飲み込まれそうになるほどの喪失感、孤独感があり、身震いするほどでした。ひとりの時間は好きなのに、ひとの気配が感じられないとどうもダメなのです。家でひとりでいるのもちょっと苦手です。「自然」というと、山、川、森、林、草木というイメージがあるのですが、都市部で育った私にとっては非日常であり、ふだんの生活のなかで、それらに囲まれると落ち着くかというと、必ずしもそうとはいえませんね。たまに行くからよいのであって。やはり育ってきた環境って大きいんだなぁと思います。 

私にとっては、森林浴よりもカフェで過ごすことの方が、「自然」なのかなと最近感じます。小鳥のさえずりや小川のせせらぎは、もちろん聴いていて落ち着くのですが、ふだんの生活では、カフェのノイズを聴くと、なぜかリラックスし、集中できるのです。話し声や、食器のカチャカチャという生活音ですが、そういう音をひたすら聴けるサイトまであるみたいです。https://www.coffitivity.com/ そう考えてみると、ひとによって何が「自然」なのかは異なるのかもしれませんね。「自然」は「なじみやすさ、暮らしやすさ」と捉えてもよいのかもしれませんね。私のなかで、この「自然」と対極にあったのが、仕事や社会生活の諸々でした。何かを意図して行動をするということに、不自然さを感じていました。スポーツや勉強のように、繰り返し実践するうちに、意識しなくても、「自然」に身につくようになるということもあるかもしれませんがね。 
 
一方で「自然」は災害にもあるように、ときに破壊をもたらすものでもありますね。しかしながら、私たちの力でコントロールすることはできません。そして、ひとの生も死も、始まりと終わりは、私たちの思いだけではどうすることもできません。「子どもを授かりたい」「このひとには生き延びてもらいたい」という気持ちは、ときに苦しみをもたらすことにもなってしまうのだなぁと。私がどうしても結婚に対して、出会いに対して、意図的になれないのは、私にとって、ひとが「自然」そのものだからなのです。といっても、自分の意思なのか、教え込み(強化)からなのか、プレッシャーも感じてはいましたが、今は「無」の境地です。それと、私自身も安らかな最期を迎えたい(気がはやいですね)のですが、「自然」の生死の営みとそれに抵抗する思いの葛藤ですね。って、今日のつぶやきも、一種のノイズですね。「自然」は本当に偉大ですね。人生はおもしろい。

そうだ、旅をしよう!

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今日電車に乗っていたら、ある中づり広告が目に入ってきました。どうやって写真の加工をしているんだろうと注意深く見ているうちに、その広告が設計事務所で勤めていたときに作ったパースにすり替わって見えてきて、急におかしくなってきました。そのパースというのは、幼稚園やスイミングスクールの外観なのですが… そこに出てくる子どもたちの顔を、社長や職員さんたちに変えて、「ウォーリーをさがせ」のようなゲームを、忘年会でしたことを思い出したからです。もちろんサプライズで。ふだんは建物の見栄えをよくするための脇役たち。プレゼンすらしたことのなかった私が、仕事の資料をなぜこのような事に使おうと思ったのか、まわりの誰かが反対しなかったのか、今となっては謎ですが、パソコンを駆使して、効果音も使い、画面をズームにすると、みんなお腹を抱えて、笑っているではありませんか。そりゃ、社長や職員さんたちが幼稚園児や水着姿で出てくるんですからね。びっくりですよね。その様子を見ていて、本当に嬉しかったし、何よりも準備していたとき、自分自身が一番楽しんでいた気がします。
 
普段は静かな方なのですが、たまに同時多発的にアイデアがわいてきて、実行せずにはいられなくなります。何がきっかけだろう、この原動力はどこからわいてくるんだろうと考えていたら、それは高校の修学旅行にありました。学年主任が限られた予算で、今までにないおもしろい旅をということで、企画されたのが、いったん廃車になった、臨時寝台列車での移動でした。なんと片道16時間。しかも、向かう宿が、岩手県にあるプータロ村。(八幡平にあり、コテージがある。プータロとは、フィンランド語で「木の家」ということらしい)それまでは、東京ディズニーランドが定番だったので、クラスメイトたちはかなり残念がっていました。
 
しかし、思わぬハプニングがたくさん起きて、結果的にはさらに仲良く、結束力も一段と増して帰ってきたのでした。じつは、宿泊先のプータロ村のコテージもですが、東北めぐりが5コースほどあり、青森にリンゴ狩りに行くグループ、岩手の小岩井農場に行くグループなど、ほぼ自由行動。500人ほどいる生徒に対して、先生方の監視がまったく行き届かず、その間にキュンとなる場面に遭遇したり。何が起こるかわからないドキドキ感はたまりませんね。列車もダイヤのすきまに合わせ、ラッシュ時は1時間以上停車しながらでした。行きは太平洋側、帰りは日本海側を走る車窓から見える朝日、キラキラ輝く海の美しさは、今でも忘れられません。目的地に向かう道中も旅なんだ、創意工夫することって楽しいなぁと今の自分の礎にもなっていて、本当にありがたいなぁと思います。それに今では、青春18きっぷの旅にもすっかりはまっています。人生はふらふらとおもしろい。