きょうのエスキス

一級建築士試験、R2学科復活合格。製図が鬼門。R3は自分に負けない年にする!じんわり日々の振り返り。

まなざしの向こう側

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先日、韓国から友人のジヨンがついに関西にやってきました。ジヨンとは約2年半ぶりの再会。京都に行ってみたいとfacebookで発信していて、それならぜひ会いたいと。当時ジヨンに話していた自分の道(建築の技術を身につけること)をようやく歩み始めたタイミングでもあったからです。さらに、京都で暮らすK-POP好きなかおりちゃんも誘ったら、面白くなりそうだなと手を挙げたのでした。平日にもかかわらず、かおりちゃんも仕事がお休みだったので、二人で話し合い、銀閣寺・哲学の道へ行くことになりました。

ジヨンは韓国の友人に向けて、銀閣寺を見学する様子をライブで実況してくれました。本堂の前のお庭が好きで、白砂を波形に盛り上げた銀沙灘(ぎんしゃだん)、円錐型の向月台(こうげつだい)がありますが、いざ「何これ?」と聞かれると、どう答えたらよいか戸惑ってしまいますね。勉強不足が否めませんでしたが、庭師さんが苔を手入れしている様子も偶然見ることができ、華やかさよりも「わび・さび」の奥行き感を、ジヨンに伝えることはできました。

普段地元ソウルの法人さんを相手に日本語を教えているジヨンは、日本の文化や国民性が大好きで、日韓の架け橋になりたいと月1回東京でジヨンスクールを開くようになりました。そして、「韓国語を学んでソウルへ行こう!日韓同窓生作りプロジェクト」を立ち上げました。そんな背景があったので、ジヨンとかおりちゃん、二人のまなざしが交差する瞬間は、本当にうれしかった!

韓国では外交政策だからか、現在中国の情報が中心で、日本の情報はほとんど入ってこないようです。日本語を学ぶ生徒さんも5年前と比べて6割減なんだとか。それでも、ジヨンの思いは変わりません。「三島由紀夫さんの『金閣寺』を小さい頃に読んだよ!日本語を知ると、さまざまな国の話や学問について翻訳されているから、世界が広がるね。一方で思うのは、日本は先進国だから、母国語だけでも不自由しないけど、他国の文化や言語にも興味を持ったら、もっと世界が広がるんじゃないかな。」自分の気持ちを伝える日本語が思い浮かばず、悔しがりながら、たまにネットで調べるジヨン。何よりも行動が大切だなんだなぁと気づかせてもらいました。

ジヨンとは歳も近いので、プライベートの話にもなりました。京阪電車の特急で向かったのですが、始発の淀屋橋駅から三条駅までノンストップ。他人が幸せに思えることもあるけど、比較しないことだねと。他人に決めてもらって生きていくという発想の延長線上にあったのかもしれないという気づきもありました。「いい・わるい」とされる判断基準も、ごく古い価値観に基づいているところがあるのかもしれないし、その人の想像の限界なのかもしれないなぁと。たとえば、昔は「変化」は何でも「悪」で、引越も、転職も、恋愛結婚も、すべて悪いことだったそうです。現代では「変化していくこと」は「成長・飛躍」と捉えられていて、全く悪いことではありません。また、女性が自立すること、独立することも、現代ではすばらしいことですが、昔はそうではなかったはずです。さらには、愛についての話になりましたが、星読みでおなじみの石井ゆかりさんが、やさしい言葉でありながら、表現力豊かに解説されているので、最後に引用します。

以下は、私の考えです。
愛し合うということは、たしかに、お互いの心を満足させる、充足させる、という部分もあると思います。でも、それ以上に、「自分以外の人間の命を、少し、あるいは半分くらい、生きさせてもらえる」ということでもあるんじゃないでしょうか。気持ちの取引のようなことではなくて、自分という、限界のある存在が、他者と特別な結び付きを得たときに、自分の枠を超えて、相手の人格や価値観、可能性などを、自分の一部として共有して生きることができる、そのひろがりを経験できるのが、愛のすばらしさではないかと思うのです。さらにいえば、そこで新しく「生まれる」ものもあります。子どもももちろんそうですが、たとえば共同事業をしているような人もそうでしょうし、相手と一緒に行動して様々な体験をするだけでも、一人では得られない知恵や価値観、考え方をそこに「生み出す」ことができると思います。
自分で自分を充足させ、自立していられるなら、わざわざ他人と心情的な結び付きを持って、それに付随する面倒なことを引き受ける必要は無い、というのは、たしかに非常に合理的な考えだと思います。私たちは生き物として自分を守り生かすことを目指しますから、心を乱してくるものや生活の足手まといになるようなものは、排除したいと感じるのは、間違っていないと思います。
ですがその一方で、私たちは自分個人という肉体・精神・時間のごく限られた枠を超えて、もっと外側の世界や宇宙、永遠などと結びつきたいと願っている部分もあると思うのです。その部分こそが、他者への憧れや恋、愛へと、私たちを駆り立てるのではないでしょうか。そして、私たちが傷つくリスクを負い、他者の苦悩まで引き受けながら愛情を生きたときに、私たちの内側に、あるいは外側に、なにかが新しく「生まれる」のだとすれば、それこそが私たちを世界や永遠と結びつけてくれるのだとすれば、どうでしょうか。この「永遠」などは、ちょっと神秘的すぎる感じがありますが、たとえば、自分の死んだ後にも自分を覚えていてくれる人がいたら、自分というものが死んだ後の時間にも拡張していく、みたいな、ベタなこともふくまれます。恋愛をすると、自分が自分の外側まで広がって、新しい現実的な存在感を与えられたような感じがするものだと思うのです。
もちろん、そうしたことを望まずに「一人で完結して生きる」という生き方もあると思います。それはそれで、またべつの宇宙、べつの永遠と繋がるような道に創造していくことも、できるのかもしれないと思います。
でも、少なくとも、欠乏と充足、自立と依存、という座標軸を超えて、すこし別の次元からも恋愛を捉えることは出来るんじゃないかと思いました。与え合うもの、ともに過ごすこと、ということも確かに、あります。ですがその向こうに、私たちはあらゆる関わりを自分のものとして生きています。一人の人のホロスコープの中には、パートナーの星もちゃんとあります。ということは、私たちはどこか、相手という人間を自己の一部として生きているわけです。取引関係のように、お互いのあいだにカウンターのような境界線がガッチリ引かれているわけではなく、その関わりがどんな関わりであったとしても、相手という存在は自分自身のなかの何ごとかだ、と考えることができるのです。そんな眼差しでお互いを考えたとき、見えてくるものがもしかしたら、あるのかもしれないな、と思いました。
キラキラした恋の感情は、いくつになっても、突然降って湧いたように襲ってくるモノだと聞きます(笑)私たちが「意志の力で出来ること」はとても限られていて、自分の感情さえ、自由にコントロールすることはほとんど不可能です。では、生き方を何も決められないか、というと、そういうわけでもありません。どんな生き方を選ぶのか、人生では何度も分岐点が巡ってくるものなのだろうなと思いますが、そこで、向き合っている対象が「外」にあると思うか、それとも「中」にあると感じるか、で、答えが大きく変わることもあるのかもしれないな、と思っています。

 今までたどってきた道のりが、ここに集約されていました。人生はおもしろい。

科学研究のいとなみ

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物理や科学にうとかった私ですが、今年に入り、3人の理論物理学者を知りました。中之島のラボカフェで詩人・谷川俊太郎さんと対談された橋本幸士さん。スタンダードブックストアで出合った『ご冗談でしょう、ファインマンさん』。女性科学者に与えられるノーベル賞といわれる、ロレアル - ユネスコ女性科学賞を受賞された米沢富美子さん。みなさん、繕ってない正直さ、ハッキリ伝える素直さ、心から出た言葉を言っているので、よどみがありません。瑞々しい感性とユーモア、優しさを持った、人間味あふれる方々です。記号化された数式から新たなものを作るには、それを還元する想像力、イメージの豊かさが大切なんだなと。また、持っているエネルギーのすべてをかける集中力。自然、宇宙の謎に挑む研究のいとなみのすごさに触れ、心の底から溢れ出る好奇心に従って、生きていいんだと思えるようになりました。

特に女性としては、米沢さんの生き方に関心があります。科学研究は、まず系統的な教育を受ける必要があり、図書館や実験装置も必要だと、橋本さんの自己紹介のプレゼンの映像からもわかったのですが、当時はそういうチャンスから女性は遠ざけられていたようです。しかし、泣きごとひとつ言わず、着実に研究の成果を上げ、一目置かれる存在になります。プライベートでも、学生時代に結婚され、子育て、病気を乗り越えておられ、そういう芯の強さにも憧れます。

じゃあ、メッセージを三つ送ります。一つ目は、精神的土壌。外なる敵だけではなくて、内なる敵、つまり自分の中にある、気がついていない敵との闘い。それを認識して、お一人おひとり、あるいは皆さんで力を合わせて闘っていただきたい。二つ目は、女性がいろんな仕事をするときに、言い訳はいらない。例えば「女性が増えれば、こんないいことがありますよ。だから、社会参画させてください」みたいな言い方ではなくて、人口の半分が女なんだから、いろんな分野で女が半分いて当たり前じゃないか、それだけでいいと思うんです。三つ目は、人生で何かにチャレンジするのに、「もう遅い」ということはないということ。「絶対何があっても、めげない」ということを信条に進んでいただきたいと願っています。

 今の私にはとても勇気づけられる言葉の数々。岩波新書から『人物で語る物理入門』も出しておられ、物理学を発展させてきた天才たちの自由闊達さ、論争好き、たすけあい、親交、情熱が伝わってくる内容なんだそうです。なんだか読んでみたくなりました。「研究ってなくならないんです。いくらでも先がある。私がいなくなっても、次の世代が研究を続けますからね、なくならない。科学の魅力ってそこですね。」楽しくて仕方がないのが伝わってきます。科学は奥深くて、おもしろい。そして、わたしは本当にひとが好きだ。

8/6 追記:米沢さんの言葉を抜粋します。「オッペンハイマーのところで書きましたが、物理学は核分裂を発見し、それが原子爆弾を生みました。科学技術は、人類を幸せにも不幸にもします。その矛盾をどうするか。不幸を極力小さくしなければなりません。二十一世紀、原子爆弾は、どこにも、誰の上にも、絶対に落ちないようにしないといけません。」探究は続く。

it's a wonderful world

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最近スタバの帰りに、大阪城、NHK、難波宮跡を眺めながら、上町筋を南下し、上町交差点を左折して、法円坂付近にある教会や学校、洋菓子屋、珈琲屋を散策するようになりました。すっかり暗くなり、ひっそりと静まり返ったオフモードの街。とにかく歩いていると、シンプルになれるというか、大切な時間になりました。昨日は、久しぶりにミスチルの『it's a wonderful world 』に収録されている名曲を聴きながらでした。この街には、建築、ひとり暮らし… 14、5年前の出来事がたくさん詰まっていて、その当時聴いていたアルバムでした。『蘇生』『ファスナー』『UFO』は、特にメロディが好きで、何度も聴きたくなります。

私が好きなシェリル・クロウもそうなのですが、さわやかな曲だと思って、歌詞を読んでみると、不器用で醜かったり、人間くさい部分も多くて。けど、そういう部分も含めて、ひとが本当に好きなんだなぁと今しみじみと感じています。可愛げがあって、チャーミングにさえ思えてくるので、不思議です。特に『ファスナー』は「昨日君が自分から下したスカートのファスナー」で始まり、ドキッとしますが、奥が深いです。ラブソングかと思っていたら、人間の本質を突いているのかもと。本音と建前(ウソ)、理想と現実、他者と自分… ファスナーはその「境界線」の意味にもとれます。

日常には、胸の内まではうかがいしれない事情が、溢れかえっています。個人の問題は言葉にしなければ、誰にもわからないし、どれだけ言葉を尽くしても伝わらないことだってあります。さらには、本人の口から語られた言葉が必ずしも真実であるとは限らないし、ひとの考え、感情や価値観も、移ろい変化しますしね。締めは「惜しみない愛と敬意を込めてファスナーを」。まだまだ私はファスナーを閉じたままで、深い愛を経験していないのかもしれません。しかし、今までになく、穏やかな時間が流れていて、安心感につつまれ、しあわせを感じられる、この環境が本当にありがたいです。また、『蘇生』を夜に聴くと、一日、一日、生まれ変われるのだな、今日を持ち越さずに、新しい明日が始まるのだなと待ち遠しく感じられます。やさしさも、一瞬、一瞬の積み重ねがつくりだすのかもしれません。透き通るような空気、養分たっぷりな土壌のような人でありたいなぁと思った新月の夜。人生はすばらしい。

世界は一冊の本

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「いきなりこんなふうになったわけじゃないんやで。みんなのように、小学生時代もあったんやで。」塾にいると、こういう場面によく遭遇します。たいていは私と同世代の先生方で、その背中には哀愁すら漂っています。今日は、図工を教える大学生の方も来ていて、その存在だけで教室が明るく、鮮やかになるというか…眩しいくらいです。「塾生さんとたった7歳ほどしか離れてないんやね。私にもそういう時代あったわ。あはは。」非常勤の音楽の先生が軽快に笑いながら、こちらを振り返り、大きくうなづく私。どちらかというと、ふっくらしてた昔よりも、スッキリして、笑い皺のある今のほうが好きなので、年を重ねることをすんなりと受け入れられるのかもしれないです。学生時代から社会人2年目までは外見も内面もコンプレックスだらけで、相当悩みましたから。ストレスで食べては、現実逃避の負のスパイラル。張り合うことを諦めざるを得ない状況でした。私にとっては、早いうちに、美に対して執着がなくなったのは、むしろラッキーだったなぁ… そんなことを思いつつ、コントラストな風景を味わい愛でていました。

また、事務をする傍ら、今週ついに小1の塾生さんと初対面。さっそく国語の文章問題を解いてもらうことになりました。担当の先生から音読が基本だとアドバイスをいただき、声に出して読んでもらうと、すごい!!「あっ」とこちらにニッコリ笑いかけると、消しゴムを握りしめ、左右に勢いよく動かし始めました。そして、大きな文字ではっきりと正答を書いたのです。たとえ間違いがあったとしても、塾生さんの気づきや感性を大切に、サポートできればと思いました。そんな感じで、順調に解き始めたのですが、次第に塾生さんの集中力が切れてきて、初回は途中でギブアップ。担当の先生がいい頃合いを見て、入ってきてくれました。「どうして主人公はこのような行動をとったのかな?」「主人公はどんな気持ちだと思う?」やはり、先生の言葉かけや質問には、グイグイ引き込まれている様子で、自分なりに考えている塾生さん。とても勉強になりました。また、友人で塾の教室長をしている久美さんにも、授業報告をすると「小1ですか… 私は中高生以上が専門なので、何とも意識の仕方がまた違うでしょうね。音読も大事。というか音読が根底で他を支える感じだと思ってます。全てのプロセスを楽しんでくださいね。」と返ってきました。

そんなタイミングで、偶然にも、この詩に出合いました。長田弘さんの『世界は一冊の本』です。

本を読もう。
もっと本を読もう。
もっともっと本を読もう。
 
書かれた文字だけが本ではない。
日の光、星の瞬き、鳥の声、
川の音だって、本なのだ。
 
ブナの林の静けさも
ハナミズキの白い花々も、
おおきな孤独なケヤキの木も、本だ。
 
本でないものはない。
世界というのは開かれた本で、
その本は見えない言葉で書かれている。
 
ウルムチ、メッシナ、トンプクトゥ、
地図のうえの一点でしかない
遙かな国々の遙かな街々も、本だ。
 
そこに住む人びとの本が、街だ。
自由な雑踏が、本だ。
夜の窓の明かりの一つ一つが、本だ。
 
シカゴの先物市場の数字も、本だ。
ネフド砂漠の砂あらしも、本だ。
マヤの雨の神の閉じた二つの眼も、本だ。
 
人生という本を、人は胸に抱いている。
一個の人間は一冊の本なのだ。
記憶をなくした老人の表情も、本だ。
 
草原、雲、そして風。
黙って死んでゆくガゼルもヌーも、本だ。
権威をもたない尊厳が、すべてだ。
 
2000億光年のなかの小さな星。
どんなことでもない。生きるとは、
考えることができると言うことだ。
 
本を読もう。
もっと本を読もう。
もっともっと本を読もう。


人生はおもしろい。

受験のシンデレラ

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天神祭で盛り上がった日、花火の上がった大川を南下した官庁街にあるスタバへ。建築の学校や職場が近かったこともあり、以前からよく通っている場所ですが、その日もいつもと変わらず、学生さんからサラリーマンまで、参考書を片手に勉強をしている方たちが多く、おひとりさまの時間を満喫している様子でした。その空間のなかで、『受験のシンデレラ』を観てた私も、ふつふつとやる気が湧き上がってきました。「奇跡的な出会いによって人生が変わる話。それはまるで魔法のよう。登場人物ならず、触れた人の人生にも魔法がかかるようです。」と演出家の言葉にあったように、生きている限り自分を高めていこう、誰かのために自分の人生を歪めてはダメだなぁとチャンネルが変わった感じがしました。

そういえば、そろそろかな…。調べてみると、やはり前日が一級建築士の学科試験でした。資格学校が速報を出し、試験当日に合格ラインが分かります。学科試験で合格圏内にいる人も、浮かれてはおられず、すぐに製図試験の勉強が待ち構えています。前年、前々年に学科をパスした人は製図試験から受けることができる一方、学科試験からの受験者は短期決戦で挑まなればならないというハンディがあるからです。このうだるような暑さのなか、平行定規を使って、長時間に及ぶ手書きのトレース(エスキス・作図)の練習が。そうでない人は… 今頃受験者のなかでは、いろんな思いが渦巻いているのだろうなぁ。両方を経験したことのある私は、そんなことを考えているうちに、来年に向けてのリベンジ組と一緒に、勉強に取りかかるぞと気持ちも固まりました。

世間体ばかりを気にしていた私は、「やらねば」と自分に合わないことを踏ん張ってやっているうちに、「ここまでがんばってきたんです」と自己顕示欲が強く出てきて、まわりの人たちにも自分の価値観を押しつけていました。それにもかかわらず、終いにはアイデンティティを喪失し、長い間迷路をさまよっていました。しかし、好きだったはずの建築の勉強が、中途半端になっていたことに今さらながら気づいたのです。自信のなさを、お金と時間をかけてもムダなだけだと損得勘定にすり替え、言い訳をして、勝手に諦めていました。気をつけておかないと、自動的に表れる、私の思考パターンです。人生でもたぶんこれを繰り返しやっているのだなぁ。

今日はレディースデーなので、映画を観る予定でしたが、友人からもお誘いがあったのですが、やっぱり勉強がしたくて、うずうずしてきて、今日も設計事務所からの帰りに、スタバに入りました。やりたいことが自分の感覚でわかって、その方向に進み出すことは、こんなにも楽しく、愉快なんだと。今までは外側から入ってくるものに無頓着で、それに反応したり、揺れ動いたりしていました。自分に正直になろう。ちょうど今までの習慣をやめたり、優先順位を変えていた矢先だったので、気持ちの整理は大切なんだなぁと実感しました。何事にもタイムリミットがあるから、決めたらすぐ実行ですね。これから自分のコンパスで、山登りを始めるような気分です。どんな景色が広がっているのだろう。旅は続く。

ラジオのささやき

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今年も先週木曜から「夏休み子ども科学電話相談」が始まりました。NHKラジオの平日朝8時過ぎからの番組ですが、仕事が始まるまでの間聴くことにしました。子どもたちの質問に、ときにタジタジになりながらも、言葉を選びながら、わかりやすく、丁寧に答えようとする専門家の方々には、やさしさが溢れています。今まではリスナーとして、そのやりとりをただ楽しんでいましたが、来週から学習塾で小学1・2年クラスの塾生さんと関わることになったので、視点も変わった気がします。子どもさんはなぜ?と思ったら、直球できますからね。ご両親とはだいたい同世代なのですが、子どもさんと触れ合うことで、私なりに経験の幅を広げながら、学んでいきたいと思っています。

ラジオは受験勉強のとき、一人暮らしをしていたとき、泊まり勤務をしていたとき、いつも私の身近にあり、こころの友でした。特に、小規模多機能ホームでは、利用者さんたちの見守りや介助をしながら、ひとり勤務で夜を過ごさなければならず、心細かったのですが、「ラジオ深夜便」の語りや音楽を聴き、励まされたものです。テレビのニュースや娯楽番組などに出られていたアナウンサーが、定年後に日替わりで担当されているそうで、スローペースな語りが心地いいんです。また、二時からはジャスやクラシックなどの洋楽、三時からは日本の歌が流れます。普段はレクリエーションで使うCDラジカセを、待機している共用廊下の談話コーナーまで持ってきて、初めは一人で聴いていました。しかし、私のことなので、それだけで終わるはずがありません。昼夜逆転で眠りにつけず、何度もコールを鳴らす利用者さんがいました。そんなとき、昭和初期の歌謡曲が流れてきたのです。そうだ!せっかくだし、一緒に聴こう!!その利用者さんの居室へ行き、ラジカセをベッドの脇へ。笠置シヅ子さんの東京ブギウギでした。その後、10分ほど聴いていると、ウトウトされた様子でした。睡眠剤にもまさる子守唄になっていたのかもしれません。

設計事務所でも、なぜかFMではなく、MBSラジオの「ありがとう浜村淳です」がBGM代わりになっていて、昭和レトロな懐かしさと、可愛さの宿る空間です。

ハガキ職人はまだ存在しているのでしょうか? 高校時代に聴いた「ヤングタウン」「ウッチャンナンチャンオールナイトニッポン」に始まり、今につながるラジオの時間を思い出していると、ひとりの生活を工夫して楽しんでいたなぁと。来年は国家試験にチャレンジするし、実家を出て、がんばってみようかなと。家族や友人、職場が好きだからこそ、それらに依存せずに、自立しようとふと思いたったのでした。私は私だ。人生はおもしろい。探究は続く。 

すてきなあなたに

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わたしにとっての生活のお手本、新しい生き方のヒントを与えてくれたのが『暮しの手帖』です。その中にあるエッセイは、別冊「すてきなあなたに」 としても出版されていて、特にお気に入りです。そう、朝ドラの「とと姉ちゃん」のモデルになっている、大橋 鎭子さんがずっと書かれていたんです。

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四季折々の心温まるエピソードが12ヶ月分詰まっていて、いつの時代も変わらず、 日々を丁寧に過ごすことが大切だと教えてくれます。花森 安治さんのレトロで愛らしい装丁、書体が、手作り感いっぱいで、これがまたとてもいいんです。

暮しの手帖」創刊号の最後のページ。

「ひとが、どんなに生きたかを知ることは、どれほど力づけられ、はげまされるか知れないと思うからです。」

読者のしあわせを考え続けられていたのだなぁ。

あとがき

ふりかえってみると、こんなに、たのしい思いで本を作ったことは、これまで一どもありませんでした。いく晩も、みんなで夜明かしをしましたし、そうでない日も、新橋の駅に、十時から早くつくことは、一日もないくらい、忙しい日が続きましたけれど一頁ずつ一頁ずつ出来上がってゆく、うれしさに、すこしも、つらいなどとは、思ったこともありませんでした。

この本は、けれども、きっとそんなに売れないだろうと思います。私たちは貧乏ですから、売れないと困りますけれど、それどころか、何十万も、何百万も売れたら、どんなにうれしいだろうと思いますけれどいまの世の中に、何十万も売れるれるためには私たちの、したくないこと、いやなことをしなければならないのです。この雑誌を、はじめるについては、どうすれば売れるかということについて、いろいろのひとにいろいろのことを教えていただきました。私たちには出来ないこと、どうしても、したくないことばかりでした。いいじゃないの、数はすくないかも知れないけれど、きっと私たちの、この気もちをわかってもらえるひとはある。決して、まけおしみではなく、みんな、こころから、そう思って作りはじめました。でも、ほんとは、売れなくて、どの号も、どの号も損ばかりしていては、つぶれてしまうでしょう。おねがいします、どうか一冊でも、よけいに、お友だちにも、すすめて下さいませ。

はじめて出す本で、どんなものが出来るともわからないのに、私たちの気もちを買って下さって、先生がたの、とてもいい原稿がいただけたことは、涙の出るほど、うれしうございました。出来ることなら、何でもして上げよう、とおっしゃって下さる方もございました。気に入らなければ、いくどでも書き直して上げるよ、とおっしゃって下さるかたもございました。ありがたくてみんなで、私たち、ずいぶん幸せね、と何ども何ども言ったことでした。こころからお礼を申上げさせていただきます。

この雑誌には、むつかしい議論や、もったいぶったエッセイは、のせないつもりです。それが決して、いけないと言うのではなくて、そうしたものは、それぞれのものが、もう、いく種類も出ているからなのです。この紙のすくない、だから頁数も少なくしなければならないときに、どの雑誌も、同じような記事をのせることはつまらないことだと考えたからなのです。毎月出したい気もちで、いっぱいでいながら、年四回の季刊にしたのも、その方が、いくらかでも頁数を多くすることが出来るからでした。だから、紙の制限や、頁数の制限がなくなったら、そのあくる月からでも、毎月出してゆくつもりでいます。それまで、年四回では、きっと物足らないとお考えでしょうけれど、どうぞ、がまんして下さいませ。第二号は十二月初めにだします。

はげしい風のふく日に、その風のふく方へ、一心に息をつめて歩いてゆくような、お互いに、生きていくのが命がけの明け暮れがつずいています。せめて、その日日にちいさな、かすかな灯をともすことが出来たら……この本を作っていて、考えるのはそのことでございました。どうぞ、あなたの、具体的な、ご感想を、きかせて下さいませ。

原稿を送って下さい。この雑誌に向くものなら、何でも結構ですけれど、とりわけてあなたの具体的な暮しの記録が、いただきとうございます。ひとが、どんなに生きたかを知ることは、どれほど力づけられ、はげまされるか知れないと思うからです。四百字で十枚くらい。お待ちしています。(S)